おせい 後編
「煙草をお吸いになりますか」
「いや、僕はたしなみません」
煙草盆を引きよせ隅に追いやった。
おせいが水差しから水をそそいでくれた。夏とてすだれ越しに微風は入るが、玉の汗が噴き出していた。
「おせいさんは誰かのお内儀ではありませんか」
「お恥ずかしいのですが、夫は先の大東亜戦争で戦死いたしました。陸軍歩兵連隊中尉でしたが、子供を産めなかった私は、嫁ぎ先より離縁されました。帰るところとて無く生きてゆかねばならず、こうした処に身を沈めたのでございます」
「そうでしたか、どうやら僕はおせいさんが好きになったようです」
幹がふたたび手を伸ばしたとき、おせいの胸がはだけた。
「あっいや、見ないで」
強い語気の先に泪が見えた。
「いやいやいやっ見ないでください」
慌てて両の手で覆ってみせたが、幹の目に入ってしまった。
左の乳房が黒ずんで欠落していた。
「こんな女が居る所ではありませんね、きっと不愉快ですわね、乳がんですの」
おせいは、両手をあわせて言うのだった。
「店の方にはどうか内密に願いたいのです。知られれば追い出されます。乳房の欠けた女が居ると云われます。
病を抱えて一人暗い部屋に横臥して、死を待つことほど辛いことはありません。ならばいっそのこと苦界へと思ったのです、こうしたところは雇われる時に躰の検査はされませんもの、表通りあたりの遊郭では調べられるのです。
ここに居れば一人ではありませんヮ、少なくとも学生さんのような方ともお逢いできますもの」
「云いません、僕は誰にも云いません」
「私は夫を愛しております。私は不貞の妻でしょうか、戦死した夫の名を辱しめる女なのでしょうか、私は夫を裏切っているのでしょうか。その一疑だけをお訊きしたいのです。そのことだけを何度も自問自答してまいりました。学生さん、幹さんおっしゃってください、後生ですから」
幹は言葉がなかった。出てくるのは鼻水と涙ばかりが座布団に落ちた。
「夫が出征の朝、サーベルを袂に巻いて玄関に見送りました」
-出征の朝ー
「おせい、今生の別れです。帰宅は叶わないでしょう、覚悟をしときたまえ」
「・・・・・・・・・・・・・・はい」
「軍人ならば、辞世の句でも書置きするのでしょうが、俺は後に残すお前に未練がある。女々しいと笑われようが、生きよ、この祖国に生きてほしい。笑って敬礼して行くのはいやだ。おせいさん、着物をたくしあげよ、抱いて逝きます」
「玄関で、ですか」
「構わん、誰はばかろうか、抱かせてください」
「はい・・・」
「今も夫の火照った肌の温もりが消えないのです、私は死ぬまでわすれられないのです。しかし、一人暗い死の床では、夫の温もりが覚めてゆくのです。ただ待つだけの死は、死ぬより耐え難いのです。私は不貞の妻なのでしょうか」
幹は両手で顔を覆って、慟哭したい衝動に駆られていた。
何と言えばいい、何と言ってやれるのか
幹は、泣き腫らしたおせいさんを抱きよせて、力強く抱きしめた。
「あなたを愛しています」
おせいさんは、力なく小さな声で返事をしたのだった。
「私、困ります・・・」
幹は、金の工面が就かないまま三ヶ月が過ぎて、堀川端の曖昧屋に行ってみた。
店先でやり手ばあさんが居眠りをして、椅子に腰をかけている。
「どうだね学生さん、揚がって行くかね。いい娘がいるよ」
「おせいさんという女の人、出てるかね」
「えっー、おせい。へん。とんだ喰わせ者だよ、おせいは彼岸花が咲いてた時分さね、死んじまったよ、ゲッソリ痩せて・・・・・・・・・それよりさぁ・・・・・・・・・・」
幹は店を後にして堀川をのぼった。幹の後ろからやり手ばあさんが叫んでいた。
「学生さん、口開けのかわいい娘が入ったんだよ、揚がってゆきなよ」
遠くばあさんの声が、川面を上がる風に掻き消えていった。
「いや、僕はたしなみません」
煙草盆を引きよせ隅に追いやった。
おせいが水差しから水をそそいでくれた。夏とてすだれ越しに微風は入るが、玉の汗が噴き出していた。
「おせいさんは誰かのお内儀ではありませんか」
「お恥ずかしいのですが、夫は先の大東亜戦争で戦死いたしました。陸軍歩兵連隊中尉でしたが、子供を産めなかった私は、嫁ぎ先より離縁されました。帰るところとて無く生きてゆかねばならず、こうした処に身を沈めたのでございます」
「そうでしたか、どうやら僕はおせいさんが好きになったようです」
幹がふたたび手を伸ばしたとき、おせいの胸がはだけた。
「あっいや、見ないで」
強い語気の先に泪が見えた。
「いやいやいやっ見ないでください」
慌てて両の手で覆ってみせたが、幹の目に入ってしまった。
左の乳房が黒ずんで欠落していた。
「こんな女が居る所ではありませんね、きっと不愉快ですわね、乳がんですの」
おせいは、両手をあわせて言うのだった。
「店の方にはどうか内密に願いたいのです。知られれば追い出されます。乳房の欠けた女が居ると云われます。
病を抱えて一人暗い部屋に横臥して、死を待つことほど辛いことはありません。ならばいっそのこと苦界へと思ったのです、こうしたところは雇われる時に躰の検査はされませんもの、表通りあたりの遊郭では調べられるのです。
ここに居れば一人ではありませんヮ、少なくとも学生さんのような方ともお逢いできますもの」
「云いません、僕は誰にも云いません」
「私は夫を愛しております。私は不貞の妻でしょうか、戦死した夫の名を辱しめる女なのでしょうか、私は夫を裏切っているのでしょうか。その一疑だけをお訊きしたいのです。そのことだけを何度も自問自答してまいりました。学生さん、幹さんおっしゃってください、後生ですから」
幹は言葉がなかった。出てくるのは鼻水と涙ばかりが座布団に落ちた。
「夫が出征の朝、サーベルを袂に巻いて玄関に見送りました」
-出征の朝ー
「おせい、今生の別れです。帰宅は叶わないでしょう、覚悟をしときたまえ」
「・・・・・・・・・・・・・・はい」
「軍人ならば、辞世の句でも書置きするのでしょうが、俺は後に残すお前に未練がある。女々しいと笑われようが、生きよ、この祖国に生きてほしい。笑って敬礼して行くのはいやだ。おせいさん、着物をたくしあげよ、抱いて逝きます」
「玄関で、ですか」
「構わん、誰はばかろうか、抱かせてください」
「はい・・・」
「今も夫の火照った肌の温もりが消えないのです、私は死ぬまでわすれられないのです。しかし、一人暗い死の床では、夫の温もりが覚めてゆくのです。ただ待つだけの死は、死ぬより耐え難いのです。私は不貞の妻なのでしょうか」
幹は両手で顔を覆って、慟哭したい衝動に駆られていた。
何と言えばいい、何と言ってやれるのか
幹は、泣き腫らしたおせいさんを抱きよせて、力強く抱きしめた。
「あなたを愛しています」
おせいさんは、力なく小さな声で返事をしたのだった。
「私、困ります・・・」
幹は、金の工面が就かないまま三ヶ月が過ぎて、堀川端の曖昧屋に行ってみた。
店先でやり手ばあさんが居眠りをして、椅子に腰をかけている。
「どうだね学生さん、揚がって行くかね。いい娘がいるよ」
「おせいさんという女の人、出てるかね」
「えっー、おせい。へん。とんだ喰わせ者だよ、おせいは彼岸花が咲いてた時分さね、死んじまったよ、ゲッソリ痩せて・・・・・・・・・それよりさぁ・・・・・・・・・・」
幹は店を後にして堀川をのぼった。幹の後ろからやり手ばあさんが叫んでいた。
「学生さん、口開けのかわいい娘が入ったんだよ、揚がってゆきなよ」
遠くばあさんの声が、川面を上がる風に掻き消えていった。
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